今、振り返ってみると、【別れを実感し、死を受け入れる瞬間】って、
何回かあって、1回ではなかったなぁと感じました。
「あなたはどうでしたか?」
私は長男の死を、すぐにすべて受け入れることが出来なくて、
頭では、わかっているんだけど感情がついていけない、
そんな感じでしたね。
少しずつ死を実感し、徐々に別れを覚悟する、
段階的な別れの感覚を感じました。
3年間を振り返ってみて何回かあったので、聞いて下さい。
別れを感じたとき
- 病院に向かい、死んだ息子を見たとき。
- お葬式が進行し、火葬を迎えたとき。
- 息子のお骨と帰宅したとき。
- お墓を建てて、納骨するとき。
- 仏壇に手を合わせたり、お墓参りに行ったとき。
病院に向かい、死んだ息子を見たとき
連絡を受け、家族で病院に向かっているとき、絶対に死なないでと祈りつつも、
「もう、生きて会えないかもしれない」という怖さが、心の奥のどこかにありました。
死んだ息子と対面し、医者の説明を聞いた時が最初の別れです。
思考が停止した感覚がありました。絶望しました。
頭の中は、「えっなんで、どうして、なんで死んだの、どういう事」だけでした。
別れを感じつつも、現実を到底受け入れられず、感情のまま絶望し、
死を実感することは出来ませんでした。
お葬式が進行し、火葬を迎えたとき
お葬式をすぐにすることは出来ませんでした。
出来たのは亡くなってから5日後だったと思います。
心のどこかに、お葬式をすれば息子を燃やさなければいけないという
恐怖みたいなものがありました。
「絶対に嫌だ、そんなことをしたら2度と会えなくなる、本当にお別れだ」と思いました。
お葬式が始まると、「あぁ、もう止められないなぁ、お別れだなぁ」
という、あきらめのような感覚だったのを覚えています。
火葬炉の前についたときは、気がおかしくなりそうでした。
もう2度と息子に触れることが出来なくなる、顔も見れなくなるんだと思うと、
「あぁ、もう二度と会うことはできない、これで本当にさよならだなぁ」と、
遺体との別れではありますが、とても辛くて苦しい瞬間でした。
息子のお骨と帰宅したとき
お骨になった息子と家に帰り、自作の祭壇を作りお骨を置きました。
この時に感じたのは、お葬式と火葬のあっけなさ、イベントの後のような虚しさ、
周りから置き去りにされたような、緊張の糸がプツンと切れたような感覚でした。
「あぁ、もういないんだな」と、この時初めて寂しさを感じたような気がします。
お墓を建てて納骨するとき
息子がお骨になったとしても、愛おしいという感情と離れたくないという感情がありました。
ずっとこのままでもいい、そばに置いておきたい、お墓なんていらないって思っていました。
毎日、息子の好きそうなものを買ってきてお供えをし、ろうそくに火をともし、お線香をたいて
話しかけていました。
でも、一生そのままというわけにはいきません。
気軽に行けて、明るい雰囲気の場所を時間をかけて探しました。
墓石を厳選し、デザインも家族みんなで話し合いを重ね、
1年半後にやっと納骨することが出来ました。
この時に思ったのは、とうとう息子が「あっちの世界に行ってしまったな」という感覚でした。
仏壇に手を合わせたり、お墓参りに行ったとき
やっぱり、お骨でも家からいなくなると寂しいものですね。
心にぽっかりと空いていた穴が、さらに大きくなったように感じます。
今までは、目の前の息子に話しかけていたのに、
今は、遠くの世界にいる息子に話しかけているような感覚です。
「もう一度会いたい」
会いたいという思いが募ります。
ゆっくりと息子の死を受け入れ、徐々に心の中に渦巻いていたものが整理され、落ち着いていくようでした。